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放射線治療にたずさわっている赤ワインが好きな町医者です。緩和医療や在宅医療、統合医療にも関心があります。仕事上の、医療関係の、趣味や運動の、その他もろもろの随想を不定期に更新する予定です。
 今日、お知り合いの先生と30年くらい前の大学時代の話でちょっと盛り上がったので、備忘録としてこのブログにもあえて残すことにしました。およそ3年前に母校の大学医学部サッカー部50年記念誌へ寄稿したもの(一部改変)です。

 完全に自己満足の世界ですが、ご容赦ください。
 
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『夕方まで爆睡、のちサッカー練習、のち飲み、たま~に講義、の毎日』
 
 〇大学サッカー部50周年記念誌への寄稿案内があってから、何を書こうかずっと悩んでいました。在籍6年、テーマは山のようにあるはずなのですが、9月の締め切りが来ても筆が止まったまま、問題先送り状態で時だけ過ぎました。10月に入り、「まだ間に合うから」とのご連絡をいただき、久しぶりに学生時代のアルバムを眺めてみました。楽しかったこと、つらかったこと、懐かしかったこと、思い出したくないこと、やっぱりいろいろありました。ということで、今回は自分の思いつくままに書くことにしました。

 私は医学部に入ったらサッカー部に入ろうと決めていましたし、入学直後の新入生ミルクコンパ(建前上はお酒が飲めないので、このようなネーミングになっていたはず)終了後に即、部室に案内していただきました。先輩に導かれ妙に薄暗い廊下を通り部室のドアが開くと、パッと目の前が明るくなり後光が差すかのように正面にどっしりと着席されているお2人が目に入りました。「さすが〇大学医学部の先輩は威厳がある!」という第1印象でした。医者になったばかりのK藤先生と5年生のM人さんでした。人を見る目がまだ幼かった私でした。

 私の背丈は169.5cmしかないのですが、入部後ほどなくゴールキーパーをしてみないかと勧められました。私が入学したのは3連覇がかかった東日本医科学生総合体育大会:以下、東医体(Wikipedia:日本国内で行われる体育大会としては、国民体育大会(国体)と西医体に次ぐ第3位の規模!)の年。当時最上級生で高校時代には県代表ゴールキーパーでもあった板橋さんにいろいろご指導いただき、本当に下手糞でしたがチーム事情で選手として出してもらえそうな中で練習しました。しかし、大会直前1週間くらい前の練習で強いシュートを弾くと、手に今まで感じたことのない鋭い痛みが… 手根骨の剥離骨折でした。ボイコットのつもりはなかったのですが東医体1回戦当日の直前練習で再度悪化、見事な3連覇の瞬間はスタンドで指をくわえて観戦していました。

 現役時代は6年間ゴールキーパーを続けさせていただき(現在は全くやっておりませんが)、板橋さんのご指導はずっと私の心の中に強いインパクトを残しています。自他ともに厳しい方で、40台と若くして病に倒れてしまったのですが、闘病でも敬意を表するお姿でした。感謝と共に改めてご冥福をお祈りいたします。

 その後の私たちの東医体は歯がゆい結果ばかりでした。大会で唯一2敗を喫するチーム(4位)に2度もなり、準決勝の相手はいずれも優勝(3年時の弘前大、首脳部時の北大)。また4年時に1回戦PK負けした山形大は準優勝だったと思います。首脳部時代の準決勝北大戦は特に辛い思い出で、私はいまだにビデオを見ることができません。後半2-0でリードしながら1点返され残り5分、たしかカウンター気味に攻め込まれ、中途半端に前に出てしまった私の左脇をコロコロとボールがすり抜け、無人のゴールへ。試合中「気持ちを切り替えよう」と自分に言い聞かせながら、でも同点の尾を引いたままPK戦に突入。そして北大2人目だったか、また似たようなコロコロシュートが私の左脇をすり抜け、結局一人も止めることができずにPK負けでした。あの2つのコロコロはいまだに私の脳裏に焼きつき、一度もビデオを見ていないのに夜中に何度も夢で出てくるくらい残像が記憶されています。負けは負けですし、言い訳がましいですが…。なので、添付写真くらい勝って喜んだ時のものを掲載します(写真)。準決勝で弘前大に負けた時の東医体 3回戦、大雨直後で一部が池のようなピッチかつ凄い強風の中、大逆転で勝利した新潟戦終了直後です。



 大学時代、サッカー以外はよく飲みよく寝ました。最初のお花見では当然初めてつぶれ、記憶なくJさんのアパートに連れられゲロまみれで目覚めました。4 年の時は逆に我が家に今は亡き小玉を運び、台所に巻き散らかれたゲロを処理したこともありました。シャイないいやつでした。

 2年の時の四大戦では、前橋の居酒屋で総勢30人くらいだったか酔っ払い集団が自分の靴下一足を真ん中の足にかぶせただけの姿で群馬大伝統の(?)「異邦人」を合唱させられました。もちろん他のお客さんもいましたけれどお構いなしに、今なら間違いなく(いや当時でも本当なら)警察沙汰です。

 北海道のサッポロビール園にいくたび、ゲロ吐きながら意地になって大ジョッキ10杯の「迷ビール会」入りを競ったこともありました。噛みつく人を押さえたり、殴りあう人を止めたり、飲み会はいろんなことがありました。私の二日酔いは年中で、日中はいつもアパートで休息し夕方の練習に備え体力回復を試みていました。そのためか本業であるべき講義の記憶があまりありません。授業料を支払ってくれた親にはいまだ申し訳なく思っていますし、社会人なりたての時は医学の勉強不足がボディーブローのように効きました(いまだに…?)。

 試合で全国各地に遠征後は、多くの有志部員でレンタカーを借りて地域名産を飲み食いしながら帰ってきたりもしました。自分が出た東医体で優勝できなかったことは本当に悔しかったですが、やっぱり何もかもが思い出です。


 自分の備忘録で人様には面白くなさそうな内容、おわび申し上げるとともに最後まで目を通していただき深く御礼申し上げます。大学時代にサッカー部の一員として過ごせたことを今でも本当に感謝しています。
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【2016/09/02 18:37】 | 普通の日記
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