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放射線治療にたずさわっている赤ワインが好きな町医者です。緩和医療や在宅医療、統合医療にも関心があります。仕事上の、医療関係の、趣味や運動の、その他もろもろの随想を不定期に更新する予定です。
 最近、医療現場などで臨床宗教師という存在が徐々に注目を浴びてきています。

 『「臨床宗教師」とは、日本の在宅緩和医療のパイオニアのお一人であった故岡部健医師が英語の「チャプレンchaplain」の訳語として考案した名称ですが、公共的施設などで働く宗教者をさす一般名詞であると考えています。…(中略)…
 私達の目指している「臨床宗教師」の大きな特色は、超宗教・超宗派の協力と学びあいを通して養成される宗教者であるということをあらためて確認しておきます。』(東北大学実践宗教学寄附講座HPより引用)
http://www.sal.tohoku.ac.jp/p-religion/diarypro/diary.cgi?field=8


 これからの時代の臨床宗教師の必要性に対する主張をはじめとする田中雅博先生のインタビュー記事は、個人的に備忘録として記録しておきたく***以下の『 』内にそのまま(無断)引用させていただきました。

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http://www.higan.net/news/2016/02/spiritualcare.html

『栃木県の益子町に、ご自身のお寺の境内に病院を開院して、患者さんの「いのちの苦」を緩和する「スピリチュアル・ケア」を実践されている、お医者さんであり、真言宗豊山派のお坊さんであられる、田中雅博さんという方がいらっしゃいます。田中先生は、ローマ法王庁が呼びかけた国際会議にも過去4度も招かれ、仏教という立場からの「スピリチュアル・ケア」の大切さについて講演されました。

 末期がんと診断され、余命宣告を受けた現在においてなお、田中先生が文字通り命がけで私たちにお伝えくださろうとしている「スピリチュアル・ケア」とは、いったいどのようなものなのでしょう? そして「いのち」の正体とは......? いまこそ、ぜひ、先生に教えを請いたい、と、無理を承知で取材をお願いさせていただいたところ、快くお引き受けくださいました。

 仏の智慧を、いかに現代医療、ひいては社会全体に活かしていくべきか......。抗がん剤の副作用の真っ只中にありながら、ひとつひとつ、丁寧に、真摯にお伝えくださった田中先生の、厳しくもあたたかな眼差しに、私は、真の仏教者の姿、もっと言えば「菩薩」の姿を見た気がいたしました。大きな示唆に富んだインタビューです。最後までじっくりとお読みいただけますとさいわいです。


――田中先生は長年、医師として、また僧侶として、「スピリチュアル・ケア」を提唱され、また、ご自身の医院でも真摯に実践されてきました。仏教は「スピリチュアル・ペイン」=「いのちの苦」に対して、具体的にどのような智慧を授けてくれるのでしょうか?

 「いのちの苦」というのは、生老病死すべてのことですが、とくに「死」というのは、「自分」、「我」という存在がなくなることですから、人間にとって大変大きな問題なわけです。

 それで、古代インドでは、なんとかその問題を解決しようとして、数百年もの間、出家修行ということが盛んに行われた。その人たちが具体的になにをしたのかというと「ヨーガ」ですね。心のはたらきの制御ですけれど、それを必死に修行していた。ところがそれを達成した人はいなかったわけですよ。

 そんな折、お釈迦さまが現れて、はじめて「死」という問題を解決された。そうして「不死の鼓(つづみ)を打つ」と宣言されたわけです。その後、お釈迦さまは遠いところまで歩いていって、修行者が集まっていた場所で「苦集滅道(くじゅうめつどう)」という4つの真実を発表しました。

 まずは「苦」ですね。最初に、お釈迦さまは、苦しみという真実がある、ということをおっしゃった。次に7つの苦しみを並べるんですね。生・老・病・死。それから怨憎会苦(おんぞうえく)・愛別離苦(あいべつりく)・求不得苦(ぐふとくく)。そして次に、これら7つをまとめると我に執着する苦、五取蘊苦(ごしゅうんく)となる、と。

 五取蘊(ごしゅうん)というのは、般若心経に出てくる五蘊(ごうん)と同じですね。色受想行識(しきじゅそうぎょうしき)という、「我」というこだわりの要素の集まりのことです。この身体と心のはたらき。「この身体が私のものである」とか、「我思う、ゆえに我あり」とか、そういう「我」というこだわりの要素の集まりとして、五取蘊というものがある。我に執着する苦、これこそがまさに「スピリチュアル・ペイン」です。

 ここでひとつ押さえておきたいのは、「苦」というのは、「思い通りにならない」という意味の言葉なんですね。ですから、いわゆる現代の日本語の「苦しみ」とは、ちょっと違うと思います。

 とにかく、お釈迦さまは、「自分」というこだわりこそが「苦」である、と言いました。次に、じゃあどうして「苦」が生じるのか、というところで「思い通りにしたい」という欲から「思い通りにならない」という苦が生まれる、と。これが「集」。3つの渇愛を説いたわけです。1つめは男女の愛欲。2つめは生存に対する欲求。最後に、死にたい、という欲求ですね。この3つの「思い通りにしたい」という思いから、「思い通りにならない」ということが生ずるのだ、と。非常に単純明快です。

 そうすると、その3つの欲がコントロールされたら、苦しみはなくなる、思い通りにならないことがなくなる、と。それで、その欲が完璧にコントロールされた状態を、お釈迦さまは「涅槃」と言ったわけですね。そして、涅槃は、まさに「無執着」である、と。これが、苦集滅道の「滅」ですね。その次に、どうしたらそれを達成できるのかということで、「八正道」を説かれたわけです。八正道の「正」は「完全に」という言葉の漢訳で、「正しい」という意味ではありません。これが「道」ですね。完全に渇愛を制御して生きる道です。

 つまり、仏教は人々を「苦」の此岸から、「楽」の彼岸まで運ぶ筏(いかだ)ということになります。これはそのまま「スピリチュアル・ペイン」を緩和する「スピリチュアル・ケア」になりますね。


――仏教は、その成り立ちからして、まさしく「スピリチュアル・ケア」そのものだった、ということですね。では、実際に、臨床の現場ではどういった「スピリチュアル・ケア」が行われているのでしょう?

 医師のするべきこととしては、まずはしっかりとした科学的な情報を患者さん本人に提供する。そこが非常に大事なことですね。いのちに関して、自分がいまどういう状況なのかということを、本人にはっきりとわかってもらう。その上で、本人に、その限られたいのちをどう生きるのかということを、考えてもらったり、決めてもらったりする。

 そのときに「宗教」というものが非常に大事になってくるんですね。「宗教」というのは、どこそこの神さま、仏さまを信仰するというのだけではない。ひとりひとりにとって、自分自身のいのちを超えた価値というのがあったなら、それこそが本人の宗教だと思うんです。

 先ほどはお釈迦さまの話をしましたけれど、この仏教っていうのは、「自分」というこだわりを離れていくという教えですので、自分の考えや宗教を相手に押し付けるということをしないわけです。このことからして、本人の生き方、本人の宗教、そういったものを尊重するのがスピリチュアル・ケアワーカーの役割になります。だから、仏教ではこのように説かれているから、こういう生き方をするといいですよ、というようなことは決して言わない。

 日本人には無宗教の人が多い、というようなことを良く言われますけれど、私はそういうことはないと思うんですよ。やはり、この限りあるいのちを生きるための理想というのは、みなさん、それぞれに持っていると思うんです。いわゆる一神教のように、なにか特定のものを信仰するというよりも、仏教のように、「自分」というもの、「我」というこだわりを離れる、あらゆる生き方を尊重する。曼荼羅的な世界観といいますか、あらゆるものをそのままに認めていく。これこそが日本人の宗教であって、日本の文化だと思うんですね。そういう意味で、仏教というのは、まさに、これからの時代にふさわしい宗教ではないかと思います。


――田中先生のご尽力によって、「スピリチュアル・ケア」は、日本の医療の現場にも、少しずつ広まりつつあると思います。しかしながら、一般的な認知度は、残念ながら、まだまだ低いと言わざるを得ない状況です。

 私自身、現在の臨床宗教師や臨床仏教師が育ってくれることを非常に願っています。いままでの日本では、スピリチュアル・ケアを医師自らがやろうとしていた。現在でもそういう方はいらっしゃいます。しかしながら、医師というのは、とにかく忙しすぎて時間がないんです。これは日本の医療の問題ですけれども、医師たちは、少ない人数で、非常に忙しく、まったく余裕がない状態で、医療の世界を支えているんですね。なので、医師だけでは、能力的にも、時間的にも、とても十分なことはできないんですよ。医師は人間に関する科学の専門家です。医師免許は人文学を学んで得た資格ではありませんから。

 そこで、その部分を担当するのが、スピリチュアル・ケアワーカーという人たちです。日本でも、明治以前、江戸時代までは、仏教のお坊さんが、その役割をずっとやってきていたんですよ。しかし、明治維新以降、そういう人たちがいなくなってきてしまった。

 だから、まずは現代の、医師中心の、彼らの過重労働で支えられているような医療現場の状況を変える必要があるんですね。しかし、それは大変に難しいことなんです。というのは、じゃあそのお金を誰が負担するのか、という問題になりますから。当然、日本の社会が負担するいい方法を考える必要があるんですけれども。実際、現在の医療現場のスタッフの数の何倍も必要でしょう。スピリチュアル・ケアワーカー以外にも、多くの職員が必要だと思いますよ。果たしてそのための費用を現代の日本の社会が負担できるのかどうか......。

 私自身、何十年も医師をやってきましたけれど、十分にスピリチュアル・ケアをやってきたなんて、とても胸張って言えないですよ。やろうという気持ちはあっても、実際にやっている最中にほかの患者さんから呼ばれたり、急患さんの治療にあたったり......。そういう状況がずっと続いていました。

 「スピリチュアル・ケア」が必要だということを、私はずっと言ってきたわけですけれど、自分でそれを十分にやれたかというと、とてもやれてはこなかった......。今後に期待したいところですね。


――多くの進行がんの患者さんの治療に当たられてきた田中先生ですが、奇しくも、ご自身が同じ病に冒されてしまった......。残されたいのちが決して長くはないと知ったいま、先生は、ご自身の「いのちの苦」というものと、どのように付き合っていらっしゃるのでしょうか? そして、「いのち」の正体とは? 現在、どのようにお感じですか?

 私は「いのちの苦」というものの滅尽を目指して修行をしている僧侶です。ブッダに憧れて、自分もそれに近づきたいと考えて、ずっと努力をしてきました。しかしながら、どこまで近づけたのか、それは問題ですね。自分では、少しは近づけたかな、とは思っておりますが......。

 私自身の「苦」は、もちろんありますよ。ただ、それをコントロールすることは、まあ、ある程度は、できているのではないでしょうか。できている、と思いたいところですね。

 「いのち」とは......。ひとつには、現実のいのちというのがありますね。これはお釈迦さまが言った、3つの渇愛、これによって生まれては死に、生まれては死にっていう、そういうものですね。それに対してもうひとつ、理想的ないのちというのがある。智慧の完成、というものですね。こちらの意味でのいのちは、不生不滅なんです。

 それを努力目標として修行しているのが、私をはじめとする仏教僧侶だと思うんですね。いわゆる仏と一般の人とのちょうど中間にあって、目覚めを目指して頑張っている人。それを「菩薩」といいます。

 私は、生きられる時間としては、もう、あまりないということははっきりしているんですよ。これから先、半年以上生きられる可能性っていうのは、統計からいえば、ほとんどないと思うんです。もし生きているとしても、今度は身体の苦しみが起きてしまいます。そうなってきたときには、もう、とても講演もできなくなるし、原稿も書けなくなるし、取材を受けることもできなくなる。しかし、そういう症状が出るまでの間は、どうにか、できる限りのことはやっていきたいな、と思うんですね。生涯、修行者でありたいと考えています。


――田中先生。本日は、大変貴重なお話を、ほんとうにありがとうございました。

2016年1月21日 西明寺信徒会館にて

聞き手:小出遥子』 (全文引用)
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【2016/02/08 21:33】 | 医療全般
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